限りある命はどう燃やすのか。

なんだか、重いタイトルですが、猫の話です。

ニッキは、以前に借りていた家の庭にあった壊れかけた物置で、ほかの3匹の兄弟と一緒に生まれました。
去年の春に死んだ「でか犬」のレオが一生懸命舐めて育てました。

他の3匹は友人たちにもらわれていきましたが、ニッキだけが残り、家で育てる事にしました。

小さいときからなんだかドジで、レオによく蹴られたりしましたが、無事に大きくなって、とても美しいキジトラの雄になりました。

とても気だての優しい子で、1年後から家族になった「猟奇的な彼女」の小夏には、なんでも譲ってしまう遠慮がちなやつでした。

そのニッキが変わったのは去年の夏でした。
はじめに三日ほど帰ってこないときがありました。
それまで、ずっと家で小夏と遊びまくっていたので、ずいぶん心配しましたが、夜にこっそり帰ってきて、ご飯を食べていました。

それ以来、彼は「半野良」になりました。

特にこの春は、どこかに彼女でもできたのか、三日、四日と家を空ける事が多くなり、小夏とも遊ばなくなりました。家にいるときも、どこか上の空でよそよそしい感じでした。
体も大きくなり、以前の優しい感じは消えて、どこかの雄猫と縄張り争いでもあるのか、生傷が絶えなくなりました。

7月の初めにまた、フイッとどこかに出かけ、一週間経っても帰ってきませんでした。
これは車に轢かれでもしたか、と思い、もう死んでいるかもしれないとあきらめかけたとき、夜中に帰ってきました。
がりがりに痩せて、後の左脚が血だらけでした。

医者は「悪くすると切断」と言って、抗生剤と軟膏と消毒液をくれました。

彼は「エリザベス」をつけられて、毎日2回、骨の突き出た肉の塊になった、足指を消毒される事となりました。

幸い、一週間の治療の甲斐があって、切断は免れる事になりました。
ガリガリだった体も、毎日、食っちゃ寝の暮らしで大分元に戻りました。

ところが、「良かった、良かった」と家族で安心していた昨日の夜、窮屈な「エリザベス」を外して、食事と排便の後、消毒をしようと用意をしているわずかの間に、ニッキはいなくなっていました。

 

ニッキ with エリザベス

ニッキwithエリザベス

ほんの1、2分の事でした。

また、庭でうんちをしているかも、と思い、あちこち名前を呼びながら探しましたが、返事はありませんでした。

まだ、指の骨が突き出たままの足で、彼はどこかに行ってしまったのです。

今朝は珍しく6時前に目が覚めました。起きてまず、ニッキを探しましたが、帰ってきた様子はありませんでした。
今度こそ、死んでしまうかもしれない、と心配しながら、どこか私は、ニッキをうらやましく、そして誇らしく感じていました。

後生大事に守り続けて、いったい何のための命だろう。
この一瞬を燃やし尽くし、そして果てたとしても、何の悔いがあるだろう。
それこそ、この命の本当の意味、生き甲斐じゃないだろうか。

ニッキの命、そして自分の命を思いながら、溝の草を引きました。

 

 

 

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