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自信を失わせる教育ーその2

自信を失わせる教育ーその2

根拠のない自信や安心は、初めは「万能感」として現れるのでしょう。
本気でウルトラマンだと思う、あれです。
けれども、これは当然長続きはしません。
数々の手痛い体験を通して、みんな、自分はウルトラマンではない、と気づくのです。

もし、この挫折を無事通り抜けて、(そのためにはまわりの人たちの温かい眼差しや共感が、愛が必要なのですが、)「ウルトラマンでなくてもいいんだ」と本当に思えたら、幼い万能感は自分を大切に思う気持ちに育ちます。
私たちは根拠のない自信と安心を手放さずに済むのです。
「ウルトラマンではない自分でいい」という安心感です。

学校は往々にして、一元的な価値観で子供を扱います。
学校だけではありません。
世間の大人の大部分は、点数や成績という目に見える形で、
(勉強が)できることを「良し」とし、できないことを「ダメ」と評価します。

幼い万能感は、表面的な他人との比較に基づく「劣等感」に変質します。
たとえ、「良し」と認められたとしても、それは比較の上での「優越感」に変わるだけで、ありのままの自分を受け入れる自尊的な感情は育ちません。

子供たちは評価を怖れ、失敗を嫌がるようになり、自分で自分が認められないばかりに、他人からの承認を強く求めるようになります。

目の前にいる子供たちに「まちがっていいんだよ」と声をかけます。
点数や進み具合で褒めることはしたくありません。

塾なのに、ときどき、「まぁ、ちょっとゆっくりしようや。」と声をかけたくなるときがあります。

(日大のアメフト部の事件があって、生徒さん本人と指導者たちの2つ記者会見を見て、こんな気持ちが湧き上がってきました。)

自信を失わせる教育

自信を失わせる教育

自信はどこから生まれるのでしょう。
もうすでに自信を失ってしまった大人の僕には、それが大きな疑問でした。

幼い頃のかすかな記憶を辿(たど)れば、僕は随分とお調子者で、人形劇や落語、朗読など、人前で何かを演じることの好きな子供だったようです。
それがいつの間にか、失敗を恐れ、自分を表現することから逃げるような性格の大人に育ってしまいました。

小学校の3年生くらいまでの子供達と一緒にいると、その表現力に驚かされます。みんな(大方の子は)自分を見て見て、と積極的に自己アピールして来ます。
塾の教室はうるさくて、うまくリードしないとごちゃごちゃになって、学習どころではなくなるものです。
みんな知っていることを一生懸命表現し、自分を印象付けようと必死です。

それが、高学年になると、だんだん教室は静かになって来ます。
もちろん、TPOが分かってきて、周りの「空気」を読むようになってくるということが大きいです。
それは人間が社会化して行くのに、どうしても必要なプロセスで、そうして成長することで、人は一人前になっていくのです。

けれども、それと同時に、子供たちは大事なものを失っていくように見えます。
それは「根拠のない自信」とでも言うものです。

答えを知っていようが知らなかろうが、僕の目の前に、あげた手をかぶせるようにして、自分をアピールしていた「やんちゃ坊主」はどこへ行ってしまったのでしょう。
時たま、懐かしい「根拠のない自信」が顔をのぞかせる時があって、そんな時、僕は精一杯のエールを込めて、そのドヤ顔を指名するのです。

こういう子供たちを見ていて思うのは、本来、自信や安心というものに、その根拠となる理由など何もないのではないか、ということです。

人はもともと、根拠のない自信と安心を携えて生まれてくる、そう思えるのです。

人が学校や社会の中で「教育」され「しつけ」られていくうちに、それらを必要以上に失ってしまうとしたら、それはその子にとっても、また社会全体にとっても、大きな損失ではないか、と感じられるのです。

少なくとも、その不安や自信のなさによって、本来持っている力が削がれてしまうことのないように、失敗を恐れて消極的になってしまうことのないように願いつつ、彼らに接する毎日です。

教科書が読めないと大変です。

学習全般の土台になる力として、最も大切なものは「国語力」です。

私の教室では、英語はもちろん、すべての教科で音読(おんどく)をします。

教科書も問題集も、開いたページに書いてある言葉は、すべて「読める」「書ける」「意味がわかる」状態にするよう、指導しています。

声に出して読むと、そこで初めて、自分が「読めない」と気づく生徒がたくさんいます。
「その言葉はどういう意味ですか」と聞かれて、初めて、自分が分かっていないと気づく子もたくさんいます。

毎日の暮らしが、自分の使っている言葉で用が足りていると、人はそれ以上に言葉を知ろうとしません。
言葉の量がどれほど少なくても、それで困らない限りは、言葉は広がっていきません。

もちろん、言葉以外にも、自分を表現する方法はたくさんあります。
今の子供達は、むしろ言葉以外の表現に長けているのかもしれません。

けれども、人は言葉で考えますから、言葉の量が少なければ当然、考えられることも浅く、内容の乏しいものになります。
教科学習も言葉による学習が中心ですから、使える言葉が少なければ学力は伸びません。
なによりも、人だけが持つ、言葉によるコミュニケーションの力を高めないのはもったいないことです。
宝の持ち腐れです。

意識して「知らない」「読めない」言葉に気づくこと。そして、それをそのままにしないことが大切なのです。

しかし実際、これを教室に来たときだけやっていても、とてもとても国語力を高めるところまでは行きません。
生活の全般の中でもっと言葉を使うこと、意識してその環境を作らないと、国語力を高めることは難しいのです。

生徒たちにはこう言います。「あなたは教科書が読めますか。」
保護者の方にも、同じ質問をします。「あなたのお子さんは、教科書が読めていますか。」

定期テスト前の学習は計画的に進めよう!

中間テストが迫っています。
定期テスト前の学習は入試や学力診断テストと違って、テスト範囲がかなり狭く決められています。
教室で授業をしっかり聞いて、配布されるプリントをきっちりやり、教科書やワークブックの指定された範囲のページを繰り返し学習すれば、十分に実力を発揮できるテストです。

定期テストは「計画的に学習する」習慣をつける良い練習になります。範囲が限定されているので、入試などに比べれば、はるかに短い期間(2週〜1ヶ月位)の計画で対応できるからです。
ところが中学生の場合、成績上位の生徒でも、大半の生徒はかなりいい加減な計画で、行き当たりばったりの学習をしています。
言い換えると、成績上位の生徒は処理能力の高い子が多いですから、一夜漬けのような学習でも対応できてしまう、ということです。

これは良いことのようで、実は将来的にはあまり良くありません。

むしろ、処理能力はそれほど高くなくても、しっかりと計画を立てて学習を進めるトレーニングをしている生徒の方が、高校、大学と学力を高めて、自分の能力を発揮しているように感じます。

高校入試や大学入試は長期にわたる学習で、しかも学習範囲はとても広くて、計画的に学習を進める習慣をつけておかないと、持っている力を十分に成績に反映させることは難しいのです。

計画的な学習は「我慢する」「無理をしない」「ていねいにやる」といった、言わば「心の力」「精神的な持久力」を育てます。
「自分を客観的に見る」「全体を見渡す」、そういう「見る力」も育てます。
どちらも持っている能力を精一杯発揮するために、ぜひとも身につけておくべき力です。

勢いだけで学習するのは、子供っぽい方法です。
中学時代は、そこからもっと精神的に成長した‘大人の学習’に脱皮するための、大切な時期なのです。

ぜひ、定期テストを「計画的な学習の習慣を作る」ためのトレーニングの機会にしてください。