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2018-09-26

 

教科書の読めない子供たち

のっけから脅かすような言い方で失礼します。
あなたのお子さんは、教科書が読めますか。教科書を読んで、その内容をちゃんと理解できますか。

大雑把に言って、読める読めないは「今までにどれだけ本を読んで来ているか」で決まります。
元々、言葉は人間の脳の仕組みに沿ってできているものですから、大きな障害がなければ、人は言葉を話すようになるものです。
言葉を話す、聞くという能力は普段の暮らしの中で自然に身につくものです。

けれども、読み書きはそうはいきません。

「字」を書いたり読んだりできるようになるためには、そのための訓練が必要なのです。そして、読み書き能力のレベルは、概ねどれだけ読んでいるか、どれだけ書いているか、に比例します。
つまり、もちろん個人差はありますが、子供達の読む力は「今までにどれだけ本を読んで来ているか」で決まるわけです。

今の子供達は、この経験に比例する「読む力」を育てるには、とても条件の悪い時代に生きています。
彼らはIT時代の幕開けとその急速な発展の中で育ちました。彼らはパソコン、テレビ等の「モニター、ディスプレイ」という魔法の窓に囲まれて育ったのです。
そこには動画を含む画像、音声というダイレクトな情報が溢れています。
それらは情報を伝えるために文字を必要としません。必然的に文字の必要度は下がります。
文字は情報を記号に変えて伝えます。「読む」というのは、その記号を元の情報に戻すということです。
動画やライブの音声で直接味わうことのできる情報を、わざわざ記号に変換して、また元の情報に戻すという手順は、面倒くさい手間のかかるものです。
はっきり言って、今や日常レベルの情報のやり取りに、そんな面倒で効率の悪い文字という手段はほとんど必要なくなっています。

明治の初め、日本人の識字率は来日した欧米の学者たちも驚くほど高かったそうです。(一説には江戸の識字率は8割を超えていたと言われるほどです。同じ頃のロンドンの識字率は2割程度だったそうです。)
考えてみれば、その時代は何かにつけ、日常の暮らしの範疇を超える情報に接するには、文字を読む以外に方法はなかったでしょう。(もちろん語りや歌い、落語、講談などの口承的な伝達方法もあったわけですが、、。)
人は本能的に情報を求めて生きるものです。江戸や明治の頃の人たちが本を読み、字を書くことに熱心だったのは、現代に暮らす私たちの多くが、一時たりともスマホから目が離せないのと同じ理由からだったでしょう。

話を教科書に戻します。おそらく今の中学生の半分は、教科書が満足に読めません。
彼らは読めない漢字を飛ばして読みます。たとえ読めたとしても意味がわからない熟語がいっぱいあります。
なぜなら読むという経験が浅いからです。文字に接する機会が圧倒的に少なくなっているからです
余程意識的に「読む」という習慣をつけないと、人は「読めない」まま育ちます。
残念ながら、放っておいてもその能力は育たないのです。

自ら学ぶ力を(2)

解答、解説を渡さずに数学の問題集を自習させることは、本当に無駄なことです。

生徒の学力別にその理由を考えてみましょう。
基礎力があって、定期テストでも6割、7割以上の点数を取る生徒は、できない問題を理解しながらやることが必要です。
できるだけ詳しい解説が付いている問題集をやることが必要なのです。

もし、解説を見てもよくわからない点があれば、教師に質問するためにその部分にマーカーを引くなどしておけば良いと思います。
たとえ解説のない問題集をやっても、できない問題を理解したり、その問題を解くことができるようになることはありません。
また、すでに理解している問題についても、正解を確認しながら進めることに意味があります。
うっかりミスやそれまで気づかなかった理解不足の部分なども、何回も解答と照らし合わせながらやることで、自分で修正できるようになります。
そうして自らを客観的に見つめ、自分で理解を深めていく力をつけることができるのです。
彼らこそ、ぜひ解説付きの問題をやるべきなのです。

ではそこまでの学力のない生徒はどうでしょう。
定期テストでも平均点あるいはそれ以下の点数しか取れない生徒です。
彼らには解説を見て、それを一人で理解していく力は不足しています。解説付きの問題集を渡せば、丸写しすることもあると思います。
いや、それより他に、その問題集をやり終える方法はないのです。
解説のない問題集を渡しても、そして、たとえなんとか自力でその問題を解いてきたとしても、そこには修正すべき基本的な間違いや理解不足が至る所にあって、それを一つ一つ直して、理解を促すには、その2倍も3倍もの時間と労力が必要となります。
つまり、このレベルの生徒には、解説のない問題集を渡しても意味がないのです。

彼らに必要なのは、ゆっくりとした丁寧な対応です。
2つ3つ問題を解いて、その丸付けをし、正解だったとしても、無駄な計算方法をしていないか、途中式を含めて、正しい書き方ができているか、そういうところを見ていかなくてはいけません。
間違っている場合は、どの部分を間違ったのか、何が原因でその間違いをしたのかを理解できるように伝えなくてはいけません。
大抵の場合、学年をさかのぼって、基本的な理解不足ややり方の誤解を解いていく必要があります。
長年の癖のように、誤ったやり方や考え方が染み付いている場合も多いです。

繰り返しやることもとても大切です。

どれだけ手間がかかろうと、こういった学習をしない限り、彼らが自ら学んで、学力を高めていく正しいスタートを切ることはできません。

どちらにしても、解説解答のない問題集を「根性で」やらせる意味はどこにもないのです。

自ら学ぶ力を(1)

学校から与えられる課題(宿題)で、私が理解に苦しむものがあります。
たとえば、それは夏休みの数学の課題なのですが、一冊の問題集を与えられて、それを仕上げる課題で、それ自体には何も問題はありません。
けれども、私が理解に苦しむのは、その問題集の「解答と解説」が配布されていないことです。
生徒はただひたすら、自分が出した答えが合っているのか、間違っているのか判断できずに、1ヶ月あるいは1ヶ月半過ごすわけです。

あなたはこのような課題をこなすことができますか。
正直、私は耐えられません。
それをやり遂げて提出しなくてはいけない生徒たちをとても気の毒だと感じます。
こんなことをさせられて、学習に意欲が持てるとは、とても思えません。

なぜ、そのような効果のない、無駄な課題が出されるのかといえば、恐らくは教師側にはとにもかくにも「課題を出さねばならない」という大前提があり、生徒側には「答えがあれば、ただ丸写しする」という、およそ学習とは言えない実態があるのでしょう。

この不毛な課題が生み出す「効果」は、「与えられたものは、その理由や意味など考えずに、ただひたすらやり遂げる」という「忍従の態度」「奴隷的な服従の精神」のみでしょう。
いや、それは互い(教師と生徒)の不信頼を築き上げ、ひいては人間同士の不信頼を招くことにさえもなります。
悲しいことに、その不信はすでに確固として存在しています。