教科書の読めない子供たち
のっけから脅かすような言い方で失礼します。
あなたのお子さんは、教科書が読めますか。教科書を読んで、その内容をちゃんと理解できますか。
大雑把に言って、読める読めないは「今までにどれだけ本を読んで来ているか」で決まります。
元々、言葉は人間の脳の仕組みに沿ってできているものですから、大きな障害がなければ、人は言葉を話すようになるものです。
言葉を話す、聞くという能力は普段の暮らしの中で自然に身につくものです。
けれども、読み書きはそうはいきません。
「字」を書いたり読んだりできるようになるためには、そのための訓練が必要なのです。そして、読み書き能力のレベルは、概ねどれだけ読んでいるか、どれだけ書いているか、に比例します。
つまり、もちろん個人差はありますが、子供達の読む力は「今までにどれだけ本を読んで来ているか」で決まるわけです。
今の子供達は、この経験に比例する「読む力」を育てるには、とても条件の悪い時代に生きています。
彼らはIT時代の幕開けとその急速な発展の中で育ちました。彼らはパソコン、テレビ等の「モニター、ディスプレイ」という魔法の窓に囲まれて育ったのです。
そこには動画を含む画像、音声というダイレクトな情報が溢れています。
それらは情報を伝えるために文字を必要としません。必然的に文字の必要度は下がります。
文字は情報を記号に変えて伝えます。「読む」というのは、その記号を元の情報に戻すということです。
動画やライブの音声で直接味わうことのできる情報を、わざわざ記号に変換して、また元の情報に戻すという手順は、面倒くさい手間のかかるものです。
はっきり言って、今や日常レベルの情報のやり取りに、そんな面倒で効率の悪い文字という手段はほとんど必要なくなっています。
明治の初め、日本人の識字率は来日した欧米の学者たちも驚くほど高かったそうです。(一説には江戸の識字率は8割を超えていたと言われるほどです。同じ頃のロンドンの識字率は2割程度だったそうです。)
考えてみれば、その時代は何かにつけ、日常の暮らしの範疇を超える情報に接するには、文字を読む以外に方法はなかったでしょう。(もちろん語りや歌い、落語、講談などの口承的な伝達方法もあったわけですが、、。)
人は本能的に情報を求めて生きるものです。江戸や明治の頃の人たちが本を読み、字を書くことに熱心だったのは、現代に暮らす私たちの多くが、一時たりともスマホから目が離せないのと同じ理由からだったでしょう。
話を教科書に戻します。おそらく今の中学生の半分は、教科書が満足に読めません。
彼らは読めない漢字を飛ばして読みます。たとえ読めたとしても意味がわからない熟語がいっぱいあります。
なぜなら読むという経験が浅いからです。文字に接する機会が圧倒的に少なくなっているからです
余程意識的に「読む」という習慣をつけないと、人は「読めない」まま育ちます。
残念ながら、放っておいてもその能力は育たないのです。