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何よりも大切な「言葉」について

おはようございます。
私たちは人の社会の中で、自分の気持ちや考えを他の人に伝えたり、受け取ったりして暮らしています。(それは生きていくのに必要なだけでなく、「楽しさ」「喜び」でもある、というのが重要ですね。)

「言葉」は、その伝え合うための、とても大切な道具です。
(気持ちや思いを伝えるものには、音楽や絵や彫刻、それに「顔の表情」や「ボディランゲージ(身体言語、身体表現)」なんかもあります。)

ほとんどの人は生まれて何年かすると言葉を話し始めます。それが暮らしていくのに必要だからだと思います。
毎日の暮らしがスムーズに進むように、困ったりしないように、言葉を話したり聞いたりすることは、割と自然に上達していきます。

さて、今、私が考えたいのは「言葉を読んだり、書いたりすること」です。
私たちは「必要に応じて」道具を使えるようになるのですから、必要のないものは使えるようにはなりません。
私たちは必要に迫られて、はじめて使えるようになるのです。

「言葉」の得意分野、特に書き言葉(読み言葉)が得意な分野は抽象的な概念です。
「抽象的な概念」というのは、具体的なものが持っている1つの性質や本質だけを取り出したものなので、目に見えたり手に取ったりはできません。
書き言葉はそれに名前をつけて、なんだかよくわからないけれども、その名前によって、抽象的なものはひとくくりのイメージになります。

「愛」だとか「希望」だとか、、、

「書き言葉」を使えば、これ!と言って指差すことのできないもの(「具体的」ではないもの=頭の中でだけのイメージとして存在するもの)を定義して表現して共有することができるようになるのです。

さて、学童期の子供を育てる保護者の方たちが、頭を痛めるのは、まさにこの「書き言葉(読み言葉)」をどうやって学習させるか、ということでしょう。

さあ「楽しさ」の登場です。

再び、自分のために学ぼう

ホリエモンこと堀江貴文さんが「全ての教育は「洗脳」である」という本で語っていることに、私はほぼ全面的に賛成です。

彼一流の過激な言い回しは、私の性に合いませんが、内容には大いに共感します。

本の「はじめに」で、堀江さんは「なにかしたい」けど「今はできない人」に向けて、強烈な檄を飛ばしています。

曰く「やりたかったら、やればいいじゃん」と。

そして、でも、大半の人がそうしない、と断じて、その原因は既存の学校にある、と喝破しています。

彼は歴史を紐解きながら、日本の学校制度を(個人の能力を開花させるためのものではなく、)「国づくり」のためのものだった、と明らかにしています。

社会(国)にとって都合の良い人間は、自分がいいと感じたものにどんどん突っ込んで行くような人ではなく、常に、周りを意識しながら極端なことをしない協調的な人間だ、というわけです。

堀江さんは徹底して個人主義の人です。自分のために動き、自分のために生きているのです。そして、そういう生き方を広げていこうとしています。

私流に堀江さんの言葉を翻訳すると、こうなります。

「自分の可能性を信じなさい。そして、ほかのだれかのようになるのではなく、ほかの誰でもないあなたを実現しなさい。」

こうやって子供達を激励し、背中を押してくれる大人がどれほど少ないか。

反対に、自分の未来への不安や恐れをそのまま子供に押し付け、安全に立ち回る術を解き続ける大人がどれほどたくさんいることか。

多くの子供達は、学校や世間や大人たちに対して、何か、自分が間違ったことをしていないか、自分のままでいるとダメなのではないか、とおどおどしているように感じます。

子供は生意気で上等。私は自分自身でいることに100パーセント、オーケーを出してあげたいと思います。

興味あることにどんどんと取り組んで行く中で、人は他人や世間との付き合い方も、言葉という道具はもちろんのこと、コミュニケーションの技術もノウハウも必要に応じて身につけていくでしょう。

大切なのは自分がやりたいと感じることに敏感であること、それを表明し、行動に移す勇気があることです。

もちろん、身につけておくべき基本的な学力というものはあります。

私の教室では、それらの学力を定着させるために、一番効率的な方法、学習を習慣にすること、を提案しています。

でも、もう一度強調しておきます。その学力は自分のために使ってこそ生きるのです。

自分民主主義の勧め

昨日は「自分のために学ぶ」と書きました。今日は、その「自分」について書きたいと思います。

ひとくちで「自分」と言うと、なんとなくひとまとまりの感じのするものが、実はちっともひとまとまりではない、という話です。

もっとわかりやすく言うと、自分の中にもいろんな自分がいるのです。

自分の中がまとまらないで、バラバラだと色々な不都合が起こります。

たとえば、やってはいけない、と分かっているのに、どうしてもやってしまったり、やらなくちゃ、と頑張っていると、頭がキーンと痛くなったり、熱が出たり、お腹が痛くなってしまったりするのです。

仮に自分の中を、頭と心と体に分けてみます。頭は色々と理屈をこねて、心や体を従わせようとします。

勉強や学習も御多分に漏れません。頭が実権を握ります。どうやって、頭の思い通りに自分を(心や体を含めた自分全体を)操縦するか、ということです。

そういう「自分操縦法」のなかで最悪なのは「脅迫」です。

これはでも、実際とても効果的なやり方なので、至る所で使われています。テレビやネットの宣伝にも使われますし、ついつい子供を脅していうことを聞かせている大人もいます。

早くやらないと大変なことになる。とか、これができないとどこそこへは行けない。とか、、。

そういう脅しを使って、自分自身や他人を動かそうとするのです。

「脅迫」を使って、自分を動かす方法を学ぶと、自分の中の協調関係が崩れます。

最初にあげた「やりたくないのにやってしまう」とか「やろうとすると頭が痛くなる」などは、自分の中が分断された具体例です。

また「脅迫」によって自分を動かす時、人は嫌々動くので、とっても効率の悪い動き方になります。

ブレーキを踏みながらアクセルを踏むような不経済、非効率な状態です。外から見て動いていないように見えても、内側では押し合いへし合いが続いていて、疲れます。

心の(「潜在意識」というのもありますね。)力は絶大です。体は正直です。うまく頭の理屈に騙されたり、脅しに屈するように見えて、しっかりと抵抗します。

昨日、意欲のない子供達を「エンジンの載っていない車」に例えましたが、その実、エンジンはちゃんと載っているし、いつもフル回転しています。

「脅迫」に代表されるような、頭の独裁に代わって、私は自分民主主義を提案します。

心は自分自身が向かうべき方向を知っています。好奇心やワクワクした感じが、その羅針盤です。

頭はどうやって、そこへ行けばいいかをしっかりと考えます。

あとは体が十分に慣れて覚えるまで、つまりは「身につく」まで、学習を習慣にすればいいのです。

一つにまとまった「自分」は最強です。

自分のために学ぼう

前文科省事務次官の前川喜平さんがある女性からの質問に答えて、「教育の本当の目的」について以下のように話されています。(AERA dot.2019/05/16/11:30)

「教育の本当の目的は、自分自身を大切にし、自分で考えて行動できる自由な人間を育てることだと私は思います。」

私はこの前川さんのお考えに諸手を挙げて大賛成です。

私の塾では、もう随分と前から「学習を習慣にしよう」ということを提案してきています。

コツコツと毎日続けて積み上げたものだけが、本当に身についた力となるからです。

ただし、これにはとても大切な前提条件があると、私は考えています。

それは、学習が「自分のため」のものであることです。

ところが現実には、学習の目的が親の希望であったり、世間の要請であったり、つまりは自分以外の誰かのため、何かのための学習になっていないでしょうか。

前川さんは教育は「学習権」を基軸にして考えて行くべきだ、とおっしゃっています。私も親として、社会人として、子供達の平等な学習する権利を守ってあげなくてはいけないと考えています。

それと同時に、人は自分の好奇心や意欲を一番に尊重して、「自分のために」学ぶべきだ、学んでいいのだ、と子供たちに伝えたいと思っています。

好奇心は羅針盤、やりたい気持ちがエンジンです。

教室で指導を続けていて、いつも残念に思っていることがあります。それは自分から積極的に学ぼうとする子供が少ないことです。

多くの子供が、まるでエンジンの載っていない車のようです。後ろから押したり、引っ張ったりしないと動かない。そういう働きかけをやめると、また動かなくなってしまう。そんな子供が多いのです。

きっとみんな、自分がやりたいと思うことはやってはいけない、と感じているんだな、と思います。

みんな自分の中にある「羅針盤とエンジン」を忘れているんだと思うのです。

内側から自然と湧いてくる意欲を基にして、自分で学ぶ人になってほしい。

そういう自前のエンジンを携えた人が、学習を習慣にして学び続ける、これほど強力で効果的なことはありません。

そんな子供達で賑わう、そういう教室でありたいと考えています。