「魂胆」という言葉を辞書で引くと、「心中に抱いているたくらみ、悪だくみ」と書いてある。漢字は、魂(たましい)と、胆(きも)なのに、あまり良い意味で使わない熟語だ。
この頃、昔に比べると全くと言っていいくらい本屋に立ち寄らなくなった。たまに行くと、まず思うこと。それはやたら長いタイトルの本が目立つ、ということだ。
それが「詩的」に長いなら、まだ許す。
何を言ってるかわからんタイトルだってまだマシ。
気分を害するタイトルがずらっと並ぶのは、主にビジネス関係と学参(学習参考書)の棚である。
そこはまるで新聞折込のチラシが並んでいるのと大して変わらない。
ケバケバしくて、なにかしらの魂胆丸出しの、品のないタイトルばかり目につく。
学習参考書のタイトルで目立つ文句は 簡単、短期間、効果、方法、できる、わかる、、、。
ページを開けば、中身のあるものももちろんある。
こんなタイトルつけなきゃ内容はいいのに、と思うものもたくさんある。
でも、騒々しい教室で教師が大声で「静かに!」と叫んでいるのと同じ類の、滑稽で悲しい状況がある。
声が届かなければ、始まらない。
内容のある情報も、手に取ってもらえなければ意味がない。
そして、とどのつまり、売れないと話にならないのだ。
思えば、政治も経済も教育も、何もかもがポピュリズム(人気取り)に毒されている。
良いものをじっくり育てる、という余裕が失われ、見栄えが良くて口当たりの良い、その刹那が良ければ、後のことは知らない的な、いかにも軽い薄いものが溢れている。
この夏は、生徒募集のチラシを撒かなかった。これは塾としては敗北宣言に近い。(塾のブログには載せた。魂胆のない正確な情報を心がけた。)
広告はどうしたって誇大広告、誤解を恐れずに言えば、嘘がない広告は広告とは言えまい。
そもそも広告を出すという動きそのものが、それを手に取る者を「動かそう」という「魂胆」に違いない。
出したいのは「魂胆のない情報」。
残念ながら、それは軽くも薄くもない。
(聞くところによると、ドイツでは店の店員の愛想がすこぶる悪いらしい。はじめ聞いた時は、嫌な国、なんて思ったけれど、ちょっと違うのかも、と思うようになった。ドイツの本のタイトルがどうなっているのか、本屋を覗いてみたい。特に学参。そして店員さんとやりとりもしてみたい。)