「目的的な考え方」の弊害について

2019年7月10日(つぶやきのようなものなので、言葉が雑ですが、お許しください。)
認知心理学分野で目的的行動理論のようなものがありそうだけれど、僕が言う「目的的な考え方」というのはもう少し人の生活レベルのピントの荒い話だ。
何を思って、そんな言葉を思い描いたのか、というと、塾屋の僕にとって一番身近な子供のお勉強、つまり「学習」という行動を考えていたのだ。
(ちなみに、この言葉が浮かんだ直接的な瞬間は、昨日ここに書いた安冨歩さんの馬と一緒の選挙演説行脚のYouTubeを見ていた時だった。選挙演説なんていうのも、モロに目的的な考え方に支配された行動のはずだけれど、さすがに安冨さんは、さらっとそれから優雅に身をかわして、目的など何処へやらの「安冨ワールド」を現出させていた。こんな選挙運動見たことない。)

さて(お勉強的)学習は、もろ「目的的な考え方」に支配されている。何を目的としているか、というと、できるようになること、もっとぶっちゃけていうと、テストでいい点が取れるようになることだ。そういう目的を持って学習する。そして、常に理解度を測るためにテストをしたりして確かめる。その到達度を持ってして成果と考える。

目的的な考え方の恐ろしいところは、本来目的的ではない行為まで取り込んでしまうところだ。たとえば、遊び、というのは、それを楽しむのが目的であって(あらら目的がでてきてしまった、、、)遊ぶことで得られる効用というか、成果などは本来、眼中にないはずだ。
もっと言うと、無駄の効用とか、無為の成果とか、とにかく、目的的な考え方はあらゆる活動をその成果を持って判断するような、世知辛くてみみっちい思考の世界に貶(おとし)めてしまう。
つまり「目的的な考え方」は成果のためには、遊びであろうが瞑想であろうが無為(ノンドゥーイング)であろうが、エンライトメント(悟り)だって、なんだって使ってしまおう、という傲慢で強欲な考え方なのだ。
「マインドフルネス」なんていうのも、この「目的的な考え方」に毒されてるんじゃないかな、、、。

とにかく、今はあらゆる行為が、そしてあらゆる人の心が「目的的な考え方」に汚染されて、みみっちくなってしまっていると感じるのだ。

ちなみに、学習の効果から言うと、夢中になって遊ぶのが一番効果的なのだ。

ほらほら、こうしてマインドというのはあらゆる活動を「目的的」なものにしてしまう、恐ろしい働きなのだ。