投稿者「atmofirdauz」のアーカイブ

毎日の学習を習慣にして、分厚い基礎学力を身につけよう。

2019年3月3日
春期講習、新年度の塾生を募集します。(詳しい日程は明日以降のブログにあげます。また、お知らせから要項をお伝えします。)

2月3月の入試シーズンたけなわです。私学、公立特色選抜を終えて、目下のところ、塾生は全員、志望校に合格しています。残すは公立一般選抜のみです。
是非とも、コツコツと学習を続けた成果を発揮してほしいと願っています。

さて、不本意ながら(なぜ不本意なのかは、おいおい書いていきます。)今年度も例年と同じく、夏期講習後の懇談で、半数の受験生に「毎日教室に来て学習すること」を提案しました。
理由は家庭学習の習慣が確立できていないこと、自学自習できるだけの十分な「基礎」がないことです。
「基礎」という言葉には「基礎学力」という意味ともう1つ、今巷を賑わしている「非認知能力」という意味合いも込めています。
「非認知能力」は「点数として評価しにくい力」という意味で「非認知」と呼ばれるわけですが、それは集中する力、持続する力と言っていいでしょう。要するに数々の困難を排して粘る力です。興味や疑問を追求する力とも言えます。もっと言えば、自分を信じる力、人と協調する力、そういうものも含めての「人間力」ということになるでしょうか。
「毎日教室に来て学習すること」を提案した生徒たちには、個々の違いはあっても全般的にそれらの力が不足していました。
同時にほとんどの生徒は、いわゆる「国語力」=言葉を理解する力、言葉を使って表現する力も不足しています。全般的な語彙の不足が目立ちます。

ここ数年「毎日コツコツ丁寧に学習すること」を一番大切な目標に掲げて、自学自習のできる子を育てるために、様々な工夫を凝らして、いろんな提案をしてきましたが、敵はなかなか手ごわいのです。
毎日の学習習慣を含め、先に揚げた種々の力には共通するところがあって、それは全ての力が、短期間で身につけることのできないものだ、という点です。言い換えると、国語力も含めて、それらの力を養うには「いつでも学ぶ姿勢を持ち続けること」が是非とも必要なのです。
しかし、そういう態度は、それが意識的ではない日々の習慣になっていなくては、続かないのです。

ほとんどの生徒にとって、この「続けること=学習を習慣にすること」は難題です。一朝一夕には実現しません。
(ちょっと自分のこととして想像してみてください。どなたも何かをやろうとして「三日坊主」で終わってしまうことがほとんどではありませんか。)
特に、受験する学年近くになってから入塾してきた生徒たちの多くにとって、学習はあくまで「意識的にやるもの」なので、それはしんどいこと以外ではあり得ませんし、毎日、家で課題を進めることは、とても高いハードルなのです。
また、残念ながら中3の2学期から受験まではわずか数カ月です。懇談で、毎日教室に通うことを提案した生徒たちには、先ほど掲げた総合的な力を養っている時間はないのです。
彼らには徹底的に問題に慣れてもらう、そういうまさに「付け焼き刃的な学習」をしてもらうことになります。
言葉は悪いですが、それは「その場しのぎ」の受験テクニックです。

冒頭に「不本意ながら」と書いたのは、彼らに、決して無意味ではないにせよ、それが「しんどくて、その場しのぎ」でしかないテクニックを押し付けることになるところです。
「決して無意味ではない」と書いたのは、くりかえし、くりかえし毎日学習する、ということで「慣れを作る」という学習の基本を学ぶことができる点です。数学の基礎計算などは、2ヶ月もやれば、みんな「息をするように」解くようになります。
また、字をきれいに丁寧に書くことや、設問に正しく答えることなど、コミュニケーションのマナーを学ぶことができる点も大きいです。

けれども「その場しのぎ」であることに違いはありません。
どの教科もおよそパターン学習に終始するので、本質的なことは学習できません。
奈良県の英語の入試問題は優秀です。しっかりとした読み取りができなければ、ろくに答えることができない問題が並びます。逆にそういう基礎ができていれば、満点を取ることもできる良い問題です。(ここ3、4年のリスニング問題はネイティブの発音が棒読みでつまらなくなりましたが、昔のリスニングは聞いていて楽しいものでした。今年はどうでしょうか。)
ですので、英語はなかなか「その場しのぎ」の効かない入試科目になっています。1、2年の時から(少なくとも中2から)丁寧に学習を積み上げていく必要があります。
まさに日頃の学習がものを言う入試問題になっていて、私は好感を持っていますが、我が「毎日教室に来て学習すること」を提案した生徒たちには高いハードルとなります。
(それでも、そういう慣れを作らずに入試を迎える生徒たちとは、十分に違いを見せつけることができます。
そういうわけで全員志望校に合格しているわけです。)

次回に続きます。

2018-09-26

 

教科書の読めない子供たち

のっけから脅かすような言い方で失礼します。
あなたのお子さんは、教科書が読めますか。教科書を読んで、その内容をちゃんと理解できますか。

大雑把に言って、読める読めないは「今までにどれだけ本を読んで来ているか」で決まります。
元々、言葉は人間の脳の仕組みに沿ってできているものですから、大きな障害がなければ、人は言葉を話すようになるものです。
言葉を話す、聞くという能力は普段の暮らしの中で自然に身につくものです。

けれども、読み書きはそうはいきません。

「字」を書いたり読んだりできるようになるためには、そのための訓練が必要なのです。そして、読み書き能力のレベルは、概ねどれだけ読んでいるか、どれだけ書いているか、に比例します。
つまり、もちろん個人差はありますが、子供達の読む力は「今までにどれだけ本を読んで来ているか」で決まるわけです。

今の子供達は、この経験に比例する「読む力」を育てるには、とても条件の悪い時代に生きています。
彼らはIT時代の幕開けとその急速な発展の中で育ちました。彼らはパソコン、テレビ等の「モニター、ディスプレイ」という魔法の窓に囲まれて育ったのです。
そこには動画を含む画像、音声というダイレクトな情報が溢れています。
それらは情報を伝えるために文字を必要としません。必然的に文字の必要度は下がります。
文字は情報を記号に変えて伝えます。「読む」というのは、その記号を元の情報に戻すということです。
動画やライブの音声で直接味わうことのできる情報を、わざわざ記号に変換して、また元の情報に戻すという手順は、面倒くさい手間のかかるものです。
はっきり言って、今や日常レベルの情報のやり取りに、そんな面倒で効率の悪い文字という手段はほとんど必要なくなっています。

明治の初め、日本人の識字率は来日した欧米の学者たちも驚くほど高かったそうです。(一説には江戸の識字率は8割を超えていたと言われるほどです。同じ頃のロンドンの識字率は2割程度だったそうです。)
考えてみれば、その時代は何かにつけ、日常の暮らしの範疇を超える情報に接するには、文字を読む以外に方法はなかったでしょう。(もちろん語りや歌い、落語、講談などの口承的な伝達方法もあったわけですが、、。)
人は本能的に情報を求めて生きるものです。江戸や明治の頃の人たちが本を読み、字を書くことに熱心だったのは、現代に暮らす私たちの多くが、一時たりともスマホから目が離せないのと同じ理由からだったでしょう。

話を教科書に戻します。おそらく今の中学生の半分は、教科書が満足に読めません。
彼らは読めない漢字を飛ばして読みます。たとえ読めたとしても意味がわからない熟語がいっぱいあります。
なぜなら読むという経験が浅いからです。文字に接する機会が圧倒的に少なくなっているからです
余程意識的に「読む」という習慣をつけないと、人は「読めない」まま育ちます。
残念ながら、放っておいてもその能力は育たないのです。

自ら学ぶ力を(2)

解答、解説を渡さずに数学の問題集を自習させることは、本当に無駄なことです。

生徒の学力別にその理由を考えてみましょう。
基礎力があって、定期テストでも6割、7割以上の点数を取る生徒は、できない問題を理解しながらやることが必要です。
できるだけ詳しい解説が付いている問題集をやることが必要なのです。

もし、解説を見てもよくわからない点があれば、教師に質問するためにその部分にマーカーを引くなどしておけば良いと思います。
たとえ解説のない問題集をやっても、できない問題を理解したり、その問題を解くことができるようになることはありません。
また、すでに理解している問題についても、正解を確認しながら進めることに意味があります。
うっかりミスやそれまで気づかなかった理解不足の部分なども、何回も解答と照らし合わせながらやることで、自分で修正できるようになります。
そうして自らを客観的に見つめ、自分で理解を深めていく力をつけることができるのです。
彼らこそ、ぜひ解説付きの問題をやるべきなのです。

ではそこまでの学力のない生徒はどうでしょう。
定期テストでも平均点あるいはそれ以下の点数しか取れない生徒です。
彼らには解説を見て、それを一人で理解していく力は不足しています。解説付きの問題集を渡せば、丸写しすることもあると思います。
いや、それより他に、その問題集をやり終える方法はないのです。
解説のない問題集を渡しても、そして、たとえなんとか自力でその問題を解いてきたとしても、そこには修正すべき基本的な間違いや理解不足が至る所にあって、それを一つ一つ直して、理解を促すには、その2倍も3倍もの時間と労力が必要となります。
つまり、このレベルの生徒には、解説のない問題集を渡しても意味がないのです。

彼らに必要なのは、ゆっくりとした丁寧な対応です。
2つ3つ問題を解いて、その丸付けをし、正解だったとしても、無駄な計算方法をしていないか、途中式を含めて、正しい書き方ができているか、そういうところを見ていかなくてはいけません。
間違っている場合は、どの部分を間違ったのか、何が原因でその間違いをしたのかを理解できるように伝えなくてはいけません。
大抵の場合、学年をさかのぼって、基本的な理解不足ややり方の誤解を解いていく必要があります。
長年の癖のように、誤ったやり方や考え方が染み付いている場合も多いです。

繰り返しやることもとても大切です。

どれだけ手間がかかろうと、こういった学習をしない限り、彼らが自ら学んで、学力を高めていく正しいスタートを切ることはできません。

どちらにしても、解説解答のない問題集を「根性で」やらせる意味はどこにもないのです。

自ら学ぶ力を(1)

学校から与えられる課題(宿題)で、私が理解に苦しむものがあります。
たとえば、それは夏休みの数学の課題なのですが、一冊の問題集を与えられて、それを仕上げる課題で、それ自体には何も問題はありません。
けれども、私が理解に苦しむのは、その問題集の「解答と解説」が配布されていないことです。
生徒はただひたすら、自分が出した答えが合っているのか、間違っているのか判断できずに、1ヶ月あるいは1ヶ月半過ごすわけです。

あなたはこのような課題をこなすことができますか。
正直、私は耐えられません。
それをやり遂げて提出しなくてはいけない生徒たちをとても気の毒だと感じます。
こんなことをさせられて、学習に意欲が持てるとは、とても思えません。

なぜ、そのような効果のない、無駄な課題が出されるのかといえば、恐らくは教師側にはとにもかくにも「課題を出さねばならない」という大前提があり、生徒側には「答えがあれば、ただ丸写しする」という、およそ学習とは言えない実態があるのでしょう。

この不毛な課題が生み出す「効果」は、「与えられたものは、その理由や意味など考えずに、ただひたすらやり遂げる」という「忍従の態度」「奴隷的な服従の精神」のみでしょう。
いや、それは互い(教師と生徒)の不信頼を築き上げ、ひいては人間同士の不信頼を招くことにさえもなります。
悲しいことに、その不信はすでに確固として存在しています。

夏期講習の案内ができました

夏期講習の案内ができました。

やっと夏期講習の案内ができて、昨日折込チラシも配布しました。(チラシ募集は中学部だけですが、小学部も高校部も入塾相談はいつでもオーケーです。)

この夏期講習は小学部から高校部まで、「学習を習慣にする」をメインテーマにしています。

ここ数年、習慣という課題に取り組んで来て、とにもかくにも何かを身につけようと思ったら、それを「習慣にする」のが一番だ、と痛感しています。

自分は意志が弱いから、何かを成し遂げるのは無理だ、とか、
何をやっても三日坊主だから、とか、
あれこれ理由をつけて、「やらない、できない」を選んで来た人は、
その考えを根本から変える必要があります。

否定的になって、動かない自分を、まずは笑ってやりましょう。

そして、まずは取り組んでみてください。
学習の多くは「慣れを作る」トレーニングです。
毎日コツコツ丁寧にやれば、身につくことがたくさんあります。

中学部の募集チラシはこれです。2018夏期講習チラシ最終稿

さあ、この夏、一生の宝になる「学習習慣」を作りはじめてみませんか。

自信を失わせる教育ーその2

自信を失わせる教育ーその2

根拠のない自信や安心は、初めは「万能感」として現れるのでしょう。
本気でウルトラマンだと思う、あれです。
けれども、これは当然長続きはしません。
数々の手痛い体験を通して、みんな、自分はウルトラマンではない、と気づくのです。

もし、この挫折を無事通り抜けて、(そのためにはまわりの人たちの温かい眼差しや共感が、愛が必要なのですが、)「ウルトラマンでなくてもいいんだ」と本当に思えたら、幼い万能感は自分を大切に思う気持ちに育ちます。
私たちは根拠のない自信と安心を手放さずに済むのです。
「ウルトラマンではない自分でいい」という安心感です。

学校は往々にして、一元的な価値観で子供を扱います。
学校だけではありません。
世間の大人の大部分は、点数や成績という目に見える形で、
(勉強が)できることを「良し」とし、できないことを「ダメ」と評価します。

幼い万能感は、表面的な他人との比較に基づく「劣等感」に変質します。
たとえ、「良し」と認められたとしても、それは比較の上での「優越感」に変わるだけで、ありのままの自分を受け入れる自尊的な感情は育ちません。

子供たちは評価を怖れ、失敗を嫌がるようになり、自分で自分が認められないばかりに、他人からの承認を強く求めるようになります。

目の前にいる子供たちに「まちがっていいんだよ」と声をかけます。
点数や進み具合で褒めることはしたくありません。

塾なのに、ときどき、「まぁ、ちょっとゆっくりしようや。」と声をかけたくなるときがあります。

(日大のアメフト部の事件があって、生徒さん本人と指導者たちの2つ記者会見を見て、こんな気持ちが湧き上がってきました。)

自信を失わせる教育

自信を失わせる教育

自信はどこから生まれるのでしょう。
もうすでに自信を失ってしまった大人の僕には、それが大きな疑問でした。

幼い頃のかすかな記憶を辿(たど)れば、僕は随分とお調子者で、人形劇や落語、朗読など、人前で何かを演じることの好きな子供だったようです。
それがいつの間にか、失敗を恐れ、自分を表現することから逃げるような性格の大人に育ってしまいました。

小学校の3年生くらいまでの子供達と一緒にいると、その表現力に驚かされます。みんな(大方の子は)自分を見て見て、と積極的に自己アピールして来ます。
塾の教室はうるさくて、うまくリードしないとごちゃごちゃになって、学習どころではなくなるものです。
みんな知っていることを一生懸命表現し、自分を印象付けようと必死です。

それが、高学年になると、だんだん教室は静かになって来ます。
もちろん、TPOが分かってきて、周りの「空気」を読むようになってくるということが大きいです。
それは人間が社会化して行くのに、どうしても必要なプロセスで、そうして成長することで、人は一人前になっていくのです。

けれども、それと同時に、子供たちは大事なものを失っていくように見えます。
それは「根拠のない自信」とでも言うものです。

答えを知っていようが知らなかろうが、僕の目の前に、あげた手をかぶせるようにして、自分をアピールしていた「やんちゃ坊主」はどこへ行ってしまったのでしょう。
時たま、懐かしい「根拠のない自信」が顔をのぞかせる時があって、そんな時、僕は精一杯のエールを込めて、そのドヤ顔を指名するのです。

こういう子供たちを見ていて思うのは、本来、自信や安心というものに、その根拠となる理由など何もないのではないか、ということです。

人はもともと、根拠のない自信と安心を携えて生まれてくる、そう思えるのです。

人が学校や社会の中で「教育」され「しつけ」られていくうちに、それらを必要以上に失ってしまうとしたら、それはその子にとっても、また社会全体にとっても、大きな損失ではないか、と感じられるのです。

少なくとも、その不安や自信のなさによって、本来持っている力が削がれてしまうことのないように、失敗を恐れて消極的になってしまうことのないように願いつつ、彼らに接する毎日です。

教科書が読めないと大変です。

学習全般の土台になる力として、最も大切なものは「国語力」です。

私の教室では、英語はもちろん、すべての教科で音読(おんどく)をします。

教科書も問題集も、開いたページに書いてある言葉は、すべて「読める」「書ける」「意味がわかる」状態にするよう、指導しています。

声に出して読むと、そこで初めて、自分が「読めない」と気づく生徒がたくさんいます。
「その言葉はどういう意味ですか」と聞かれて、初めて、自分が分かっていないと気づく子もたくさんいます。

毎日の暮らしが、自分の使っている言葉で用が足りていると、人はそれ以上に言葉を知ろうとしません。
言葉の量がどれほど少なくても、それで困らない限りは、言葉は広がっていきません。

もちろん、言葉以外にも、自分を表現する方法はたくさんあります。
今の子供達は、むしろ言葉以外の表現に長けているのかもしれません。

けれども、人は言葉で考えますから、言葉の量が少なければ当然、考えられることも浅く、内容の乏しいものになります。
教科学習も言葉による学習が中心ですから、使える言葉が少なければ学力は伸びません。
なによりも、人だけが持つ、言葉によるコミュニケーションの力を高めないのはもったいないことです。
宝の持ち腐れです。

意識して「知らない」「読めない」言葉に気づくこと。そして、それをそのままにしないことが大切なのです。

しかし実際、これを教室に来たときだけやっていても、とてもとても国語力を高めるところまでは行きません。
生活の全般の中でもっと言葉を使うこと、意識してその環境を作らないと、国語力を高めることは難しいのです。

生徒たちにはこう言います。「あなたは教科書が読めますか。」
保護者の方にも、同じ質問をします。「あなたのお子さんは、教科書が読めていますか。」

定期テスト前の学習は計画的に進めよう!

中間テストが迫っています。
定期テスト前の学習は入試や学力診断テストと違って、テスト範囲がかなり狭く決められています。
教室で授業をしっかり聞いて、配布されるプリントをきっちりやり、教科書やワークブックの指定された範囲のページを繰り返し学習すれば、十分に実力を発揮できるテストです。

定期テストは「計画的に学習する」習慣をつける良い練習になります。範囲が限定されているので、入試などに比べれば、はるかに短い期間(2週〜1ヶ月位)の計画で対応できるからです。
ところが中学生の場合、成績上位の生徒でも、大半の生徒はかなりいい加減な計画で、行き当たりばったりの学習をしています。
言い換えると、成績上位の生徒は処理能力の高い子が多いですから、一夜漬けのような学習でも対応できてしまう、ということです。

これは良いことのようで、実は将来的にはあまり良くありません。

むしろ、処理能力はそれほど高くなくても、しっかりと計画を立てて学習を進めるトレーニングをしている生徒の方が、高校、大学と学力を高めて、自分の能力を発揮しているように感じます。

高校入試や大学入試は長期にわたる学習で、しかも学習範囲はとても広くて、計画的に学習を進める習慣をつけておかないと、持っている力を十分に成績に反映させることは難しいのです。

計画的な学習は「我慢する」「無理をしない」「ていねいにやる」といった、言わば「心の力」「精神的な持久力」を育てます。
「自分を客観的に見る」「全体を見渡す」、そういう「見る力」も育てます。
どちらも持っている能力を精一杯発揮するために、ぜひとも身につけておくべき力です。

勢いだけで学習するのは、子供っぽい方法です。
中学時代は、そこからもっと精神的に成長した‘大人の学習’に脱皮するための、大切な時期なのです。

ぜひ、定期テストを「計画的な学習の習慣を作る」ためのトレーニングの機会にしてください。

続けることの魔法

学習塾なので、学習のことを書きます。

たとえば、成績が思わしくない、勉強ができない、ということで
入塾相談に来られる生徒さんがいます。

中学生の場合、定期テストの点数なんかを見せてもらって、
こりゃ確かに悪いなぁ、ということになったら、
本人にまず質問します。

「おうちで毎日、勉強しますか。」

ほとんどの生徒さんから
「あまりしません。」と答えが返ってきます。

一緒に来られるお母さんも
「いくら言っても、なかなか勉強しないんです。」

まぁ、気持ちはわかります。実際、それで悩んでおられるのも理解できます。

でも、私は正直に答えるしかありません。
「それじゃあ成績は上がりませんよ。」

これは当然すぎるほど当然のことなんだけど、実際、そういう相談が多いのです。

そこで、次に
「成績上げたいですか? どこどこの高校に合格したいんでしょう。」
と質問します。
大概は
「はい、上げたいです。合格したいです。」

「じゃ、毎日勉強しますか。」
「宿題も出すし、小テスト合格できなかったら、残ってやってもらうよ。」

お母さん、固唾を呑んで見守る中、本人はおずおずと
「はい、頑張ります。」
お母さん、ホッ、、、。

まぁ、一つの例ですけど、こうしてまず、本人の学習意欲を確認して、
入塾してもらいます。

ここから、学習の習慣づくりが始まります。
言うまでもありませんが、学習習慣を定着させるのには、時間と努力が必要です。

特に、今まで「家に勉強を持ち込まない主義」できた子供たちにとっては、
かなり高いハードルです。
そこに魔法のようなノウハウがあるわけではありません。
毎日、コツコツとていねいに学習を積み重ねるだけです。

ただ確実に言えることがあります。
それは、そうして毎日コツコツと学習を続けられれば、
必ず成績は上がる、ということです。

もちろん、個人差はあります。
そうできたからと言って、
だれでも難関私立の医学部に入れるわけじゃありません。

でも、その人が持っている能力を精一杯発揮するためには、
学習を習慣にして、続けることが必要です。

このブログのタイトルは「続けることの魔法」となっていますが、
これはちっとも魔法なんかじゃありません。
続けることで、確実に人は変わります。

なかなか変わりませんが、
でも、少しずつ変わります。

つまり、やっぱりこれは魔法です。

自分を変えるという経験をしたことがなければ
これはまぎれもなく魔法のような体験になります。

写真と本文は関係ありません。 ドヤ顔のジジです。