未分類」カテゴリーアーカイブ

何よりも大切な「言葉」について(その2)

学校で習う国語、算数(数学)、英語等の教科学習は、(書き)言葉=文字を使って進めていきます。
ですから日々、学習を重ねていくために「(書き)言葉=文字」はなくてはならないものです。

ところが、今はインターネットも広まり、テレビもあり、写真や動画を見ることのできる画面を持ったスマホ、タブレット、コンピューターがどの家にも何台もある時代になりました。
それらが無かった時代と比べて、子供達が文字に接する機会は格段に減ってきています。

日常生活は、話して聞くことができれば、ほとんど困ることはありません。さらに動画や写真が溢れる今の時代は、文字の必要性がどんどん薄れていっているのです。

「百聞は一見に如かず」の言葉どおり、実物や写真や動画を見れば一目瞭然、すぐにわかることも、言葉で表すとなかなか正確には伝わりません。
言葉、特に書き言葉を使って考えたり、人に伝えたり、反対に言葉を読んで人の考えやその内容を理解するには、根気よくトレーニングすることが必要なのです。
うまくできるようになるためには時間をかけて、練習を重ねなくてはなりません。

これは楽器、例えばピアノの上達と非常によく似ています。というか、全く同じことです。
ピアノの練習と、書き言葉のトレーニングは、両方とも技術の修練です。
すぐに自由自在にできるようにはなりません。
単調なスケール(音階)の練習は何回も漢字、ひらがなを書く練習と同じです。続けなくては上達は望めません。

その単調なトレーニングが続けられるとしたら、そこには必ず、強い必要性と「楽しさ=喜び(=憧れ)」があるはずです。

書き言葉の必要性は、始めはそれを習う子供本人には自覚されません。これを必要だと認識して、練習に向かわせるのは周囲の大人の役目です。
子供はただ、面白さや楽しさ、そして憧れを持って進むのです。(もちろん、ある程度の年齢になれば、自分自身で必要であることを自覚するようにもなるでしょう。)
(くれぐれも子供自身が義務感や脅迫的な情報で無理やり自分を動かす、そんな学習の進め方を学んでしまうことがありませんように。)

今の時代、文字の必要度とそれに接する機会が減ってきている現状からして、大人の責任は重大です。
周囲の大人がそれを必要と感じ、意識的に文字に接し、文字を使う機会を増やす努力をしなくてはいけません。
書くこと、読むことの楽しさ、それによって広がる新しい味わいや感覚、頭を使うこと自体の喜びを子供自身が感じられるよう、働きかけ続ける必要があるのです。

一旦、文字がもたらす世界の楽しさ、深さ、味わいを子供達が感じることができれば、後は個人個人の感性の違いに応じて、その子自身が自分の言葉の世界を広げていくはずです。
それが学力の真の土台となります。この土台の広さ、深さに応じてその子の学力は成長するのです。

学習は本質的に自発的なものです。
私たち大人は、精一杯、環境を整え、機会を増やす働きかけをするだけです。
後は見守る他はありません。
間違っても、無理やり口に放り込み、有無を言わさず飲み込ませるようなやり方をしてはいけません。
特にそういう自分の動かし方を身につけてしまっている私も含めて大部分の大人は、まず自分自身のそういうやり方を振り返ってみる必要があるように思います。

この項続きます。

何よりも大切な「言葉」について

おはようございます。
私たちは人の社会の中で、自分の気持ちや考えを他の人に伝えたり、受け取ったりして暮らしています。(それは生きていくのに必要なだけでなく、「楽しさ」「喜び」でもある、というのが重要ですね。)

「言葉」は、その伝え合うための、とても大切な道具です。
(気持ちや思いを伝えるものには、音楽や絵や彫刻、それに「顔の表情」や「ボディランゲージ(身体言語、身体表現)」なんかもあります。)

ほとんどの人は生まれて何年かすると言葉を話し始めます。それが暮らしていくのに必要だからだと思います。
毎日の暮らしがスムーズに進むように、困ったりしないように、言葉を話したり聞いたりすることは、割と自然に上達していきます。

さて、今、私が考えたいのは「言葉を読んだり、書いたりすること」です。
私たちは「必要に応じて」道具を使えるようになるのですから、必要のないものは使えるようにはなりません。
私たちは必要に迫られて、はじめて使えるようになるのです。

「言葉」の得意分野、特に書き言葉(読み言葉)が得意な分野は抽象的な概念です。
「抽象的な概念」というのは、具体的なものが持っている1つの性質や本質だけを取り出したものなので、目に見えたり手に取ったりはできません。
書き言葉はそれに名前をつけて、なんだかよくわからないけれども、その名前によって、抽象的なものはひとくくりのイメージになります。

「愛」だとか「希望」だとか、、、

「書き言葉」を使えば、これ!と言って指差すことのできないもの(「具体的」ではないもの=頭の中でだけのイメージとして存在するもの)を定義して表現して共有することができるようになるのです。

さて、学童期の子供を育てる保護者の方たちが、頭を痛めるのは、まさにこの「書き言葉(読み言葉)」をどうやって学習させるか、ということでしょう。

さあ「楽しさ」の登場です。

再び、自分のために学ぼう

ホリエモンこと堀江貴文さんが「全ての教育は「洗脳」である」という本で語っていることに、私はほぼ全面的に賛成です。

彼一流の過激な言い回しは、私の性に合いませんが、内容には大いに共感します。

本の「はじめに」で、堀江さんは「なにかしたい」けど「今はできない人」に向けて、強烈な檄を飛ばしています。

曰く「やりたかったら、やればいいじゃん」と。

そして、でも、大半の人がそうしない、と断じて、その原因は既存の学校にある、と喝破しています。

彼は歴史を紐解きながら、日本の学校制度を(個人の能力を開花させるためのものではなく、)「国づくり」のためのものだった、と明らかにしています。

社会(国)にとって都合の良い人間は、自分がいいと感じたものにどんどん突っ込んで行くような人ではなく、常に、周りを意識しながら極端なことをしない協調的な人間だ、というわけです。

堀江さんは徹底して個人主義の人です。自分のために動き、自分のために生きているのです。そして、そういう生き方を広げていこうとしています。

私流に堀江さんの言葉を翻訳すると、こうなります。

「自分の可能性を信じなさい。そして、ほかのだれかのようになるのではなく、ほかの誰でもないあなたを実現しなさい。」

こうやって子供達を激励し、背中を押してくれる大人がどれほど少ないか。

反対に、自分の未来への不安や恐れをそのまま子供に押し付け、安全に立ち回る術を解き続ける大人がどれほどたくさんいることか。

多くの子供達は、学校や世間や大人たちに対して、何か、自分が間違ったことをしていないか、自分のままでいるとダメなのではないか、とおどおどしているように感じます。

子供は生意気で上等。私は自分自身でいることに100パーセント、オーケーを出してあげたいと思います。

興味あることにどんどんと取り組んで行く中で、人は他人や世間との付き合い方も、言葉という道具はもちろんのこと、コミュニケーションの技術もノウハウも必要に応じて身につけていくでしょう。

大切なのは自分がやりたいと感じることに敏感であること、それを表明し、行動に移す勇気があることです。

もちろん、身につけておくべき基本的な学力というものはあります。

私の教室では、それらの学力を定着させるために、一番効率的な方法、学習を習慣にすること、を提案しています。

でも、もう一度強調しておきます。その学力は自分のために使ってこそ生きるのです。

自分民主主義の勧め

昨日は「自分のために学ぶ」と書きました。今日は、その「自分」について書きたいと思います。

ひとくちで「自分」と言うと、なんとなくひとまとまりの感じのするものが、実はちっともひとまとまりではない、という話です。

もっとわかりやすく言うと、自分の中にもいろんな自分がいるのです。

自分の中がまとまらないで、バラバラだと色々な不都合が起こります。

たとえば、やってはいけない、と分かっているのに、どうしてもやってしまったり、やらなくちゃ、と頑張っていると、頭がキーンと痛くなったり、熱が出たり、お腹が痛くなってしまったりするのです。

仮に自分の中を、頭と心と体に分けてみます。頭は色々と理屈をこねて、心や体を従わせようとします。

勉強や学習も御多分に漏れません。頭が実権を握ります。どうやって、頭の思い通りに自分を(心や体を含めた自分全体を)操縦するか、ということです。

そういう「自分操縦法」のなかで最悪なのは「脅迫」です。

これはでも、実際とても効果的なやり方なので、至る所で使われています。テレビやネットの宣伝にも使われますし、ついつい子供を脅していうことを聞かせている大人もいます。

早くやらないと大変なことになる。とか、これができないとどこそこへは行けない。とか、、。

そういう脅しを使って、自分自身や他人を動かそうとするのです。

「脅迫」を使って、自分を動かす方法を学ぶと、自分の中の協調関係が崩れます。

最初にあげた「やりたくないのにやってしまう」とか「やろうとすると頭が痛くなる」などは、自分の中が分断された具体例です。

また「脅迫」によって自分を動かす時、人は嫌々動くので、とっても効率の悪い動き方になります。

ブレーキを踏みながらアクセルを踏むような不経済、非効率な状態です。外から見て動いていないように見えても、内側では押し合いへし合いが続いていて、疲れます。

心の(「潜在意識」というのもありますね。)力は絶大です。体は正直です。うまく頭の理屈に騙されたり、脅しに屈するように見えて、しっかりと抵抗します。

昨日、意欲のない子供達を「エンジンの載っていない車」に例えましたが、その実、エンジンはちゃんと載っているし、いつもフル回転しています。

「脅迫」に代表されるような、頭の独裁に代わって、私は自分民主主義を提案します。

心は自分自身が向かうべき方向を知っています。好奇心やワクワクした感じが、その羅針盤です。

頭はどうやって、そこへ行けばいいかをしっかりと考えます。

あとは体が十分に慣れて覚えるまで、つまりは「身につく」まで、学習を習慣にすればいいのです。

一つにまとまった「自分」は最強です。

自分のために学ぼう

前文科省事務次官の前川喜平さんがある女性からの質問に答えて、「教育の本当の目的」について以下のように話されています。(AERA dot.2019/05/16/11:30)

「教育の本当の目的は、自分自身を大切にし、自分で考えて行動できる自由な人間を育てることだと私は思います。」

私はこの前川さんのお考えに諸手を挙げて大賛成です。

私の塾では、もう随分と前から「学習を習慣にしよう」ということを提案してきています。

コツコツと毎日続けて積み上げたものだけが、本当に身についた力となるからです。

ただし、これにはとても大切な前提条件があると、私は考えています。

それは、学習が「自分のため」のものであることです。

ところが現実には、学習の目的が親の希望であったり、世間の要請であったり、つまりは自分以外の誰かのため、何かのための学習になっていないでしょうか。

前川さんは教育は「学習権」を基軸にして考えて行くべきだ、とおっしゃっています。私も親として、社会人として、子供達の平等な学習する権利を守ってあげなくてはいけないと考えています。

それと同時に、人は自分の好奇心や意欲を一番に尊重して、「自分のために」学ぶべきだ、学んでいいのだ、と子供たちに伝えたいと思っています。

好奇心は羅針盤、やりたい気持ちがエンジンです。

教室で指導を続けていて、いつも残念に思っていることがあります。それは自分から積極的に学ぼうとする子供が少ないことです。

多くの子供が、まるでエンジンの載っていない車のようです。後ろから押したり、引っ張ったりしないと動かない。そういう働きかけをやめると、また動かなくなってしまう。そんな子供が多いのです。

きっとみんな、自分がやりたいと思うことはやってはいけない、と感じているんだな、と思います。

みんな自分の中にある「羅針盤とエンジン」を忘れているんだと思うのです。

内側から自然と湧いてくる意欲を基にして、自分で学ぶ人になってほしい。

そういう自前のエンジンを携えた人が、学習を習慣にして学び続ける、これほど強力で効果的なことはありません。

そんな子供達で賑わう、そういう教室でありたいと考えています。

子供の自己肯定感を育てる(その3)

2019年3月22日

こんにちは。郡山悠学舎の筧(かけひ)です。

学力がその子の持っている力いっぱいに発揮されるためには、なんと言っても、まず学習の習慣があることが大切です。
そして、そのベースに、自分を信頼できている感覚のあることが、とても大切だと思っています。
それが「自己肯定感」ですね。

自分の好奇心、興味や疑問から学習はスタートします。その自然な流れが受け入れられていること、それが大切なんです。
こんなごく当たり前で自然な事を強調して書かなくてはならないのは、子供たちの中で、とりわけ学習がそういう位置にないことが多いからです。

わかりやすく言えば、学習にアレルギーのある子が多い、ということです。
そのアレルギーを作ってしまった原因の大部分は、学校も含めて、まわりの大人たちの(社会の)関わり方にあるのではないでしょうか。

たとえば、我々大人自身が、毎日しんどさや不安、焦りなどを抱えて暮らしていると思うのですが、そういうものとどう向き合っているか、それを子供たちにどう伝えているか、伝えてしまっているか、そういう部分です。
不安や焦りから逃れるように、気晴らしの何かにはまり込んでいないか、憂さ晴らしのような時間が流れていないか。
子供たちはそういう大人の姿を肌で感じ、社会の雰囲気を身につけていきます。

中には、情けない姿をさらしている大人を反面教師として、自分の学びにしていく強い子もいるでしょう。
でも、できればまわりの大人自身が日々の生活の中で自分自身を肯定して生きていくモデルになりたいものですね。

つまり、子供の自己肯定感はまわりの大人がそれを持って日々生きているかを反映しているのです。

そもそも、私たち自身が、日々自分を認めながら暮らしているでしょうか。私たち大人が、学習アレルギーになってはいないでしょうか。

子供の自己肯定感を育てる(その2)

2019年3月14日

学びの原動力は、なりたいとあこがれる気持ちです。知りたいと願う心です。

人はいつも、できない、知らないところから出発するのです。

できないこと、知らないことをダメだと思ったり、恥ずかしいと感じていては、人はなかなか学ぶことができません。

学びを育てる、ということは、私たち大人が、それを実践することではないでしょうか。

なりたいとあこがれ、知りたいと願う、それを原動力にして行動する大人が、子供のまわりにいればいい。

共に学ぶ人として、できるようになること、わかるようになることを喜ぶ、楽しむ、そんな気持ちがあればいい。

できない自分、知らない自分を出発点にして、動き始めること。それが自己肯定感だと思います。

子供の自己肯定感を育てる(その1)

2019年3月7日

おはようございます。郡山悠学舎の筧(かけひ)です。

その子が持っている能力一杯に、学力を高めていくために「学習を習慣にする」ことがとても大切です。

一昨日のブログで、中3の2学期から、毎日教室に来て学習することを提案する、と書きました。(毎日の学習を習慣にして、分厚い基礎学力を身につけよう。

対象は「家で毎日学習する習慣が確立できていない生徒」です。そんな生徒には、不本意ながら、意識的で作業学習の意味合いの強い学習を、細かい指示の下、やってもらうことになります。

確かに効果はあって、いくら過去問をやっても点数にならない生徒も、たいていある程度の点数は取れるようになります。

けれども、こういう学習は、教える方も教わる方もとても疲れます。

私にはそうやって、体力に任せて、叱咤激励しながら深夜に及ぶまで生徒たちと受験に取り組んだ過去があります。

いい思い出と言えばいい思い出です。

結果を出すことが「学習塾の使命」ですから、そうやって生徒を「合格させた自負」のようなものもあったと思います。

でも最近は、そういう意識的で克己(自分に勝つという態度)的な学習は、結局「学習の習慣を確立すること」には結びつかない、と考えるようになりました。

学習は続けることが何よりも大切ですが、そのためには、それが半ば無意識的な動き=習慣になっている方がいいのです。歯磨きや洗顔を「エイや!」と気合いを入れてやる人はまずいないでしょう。学習をそれに近い無意識的な習慣にしてしまうこと、そのための仕掛けをうまく作ることに注目するようになってきたのです。

「毎日組」との学習は以前の意識的な学習に終始します。彼らのお尻を叩きます。(これは比喩ですが、、、)だから不本意ながら、なのです。

(次回に続く)

おはようございます。春期講習の要項が決まりました。

対象
新小学3年〜中学3年(今回、高校生は募集しません。在塾の高校生は個々面談の上、日程を決めます。)

費用
8千円(税別) 小学生は無料

日程
3月23日(土)〜4月6日(土)全15日

時間
午後7時〜9時半(小学生は午後5時〜6時半)

学習教科
数学・英語・漢字(小学生は算数・漢字・英語、その他)

詳細
在塾生は通常授業以外の曜日で最低7日、入塾希望者は全日程中最低
7日(小学生は5日。全時間学習できる日)をとってください。数学・英語は復習と先取り、漢字は基本漢字の学習です。
また、入塾希望者は当塾で自学自習を確立するために必須のインターネット教材「すらら」「クイズレット」の体験を含みます。2週間のすららのID(無料)を発行します。(ご家庭ですららを履修するためには動画が視聴できる程度のインターネット回線が必要です。)

なお、募集定員は決めませんが、小さな教室ですので、先着順でいっぱいになり次第、締め切ります。在塾生は申し込み用紙を配ります。入塾希望者は面談をお願いします。あらかじめ電話で面談日をご相談ください。